覚王山日泰寺

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概要

日本で唯一のいずれの宗派にも属さない日本の全仏教徒のための寺院

日泰寺山門日本で唯一のいずれの宗派にも属さない日本の全仏教徒のための寺院で、釈尊(お釈迦さま)のご真骨をタイ国(当時シャム国)より拝受し、仏教各宗代表が協議し奉安する為に1904年(明治37年)に建立された。釈尊を表す「覺王」を山号とし、日本とシャム(暹羅)国の友好を象徴して覺王山 日暹寺にっせんじ) として創建された。その後、昭和14年(1939年)シャム国のタイ王国への改名に合わせて、昭和17年(1942年)日泰寺に改名された。

よって、運営に当っては現在19宗派の管長が輪番制により3年交代で住職をつとめ、各宗の代表が役員として日常の寺務に携わっている。

年中行事としては3月15日の涅槃会。4月8日の降誕会(花まつり)、5月のウエサカ祭、6月15日の奉安記念法要、11月15日の奉遷記念法要、12月8日の成道会、春秋彼岸会法要、等々。特に毎月21日弘法大師の縁日は境内一円に露店が出店され終日にぎわい、名古屋市民の信仰と憩いの場所となっている。

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日泰寺略記

「釈尊」の実在が立証される。19世紀東洋史上の一大発見

チュラロンコン国王像1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い英領インドのピプラーワーというところで、イギリスの駐在官ウイリアム・ペッペが古墳の発掘作業中ひとつの人骨を納めた蝋石の壺を発見した。その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が側面に刻みこまれており、それを解読したところ「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである」と記されてあった。これは原始佛典に、「釈尊」が死去した後、遺体を火葬に付し、遺骨を八つに分けてお祀りし、その中釈迦族の人々もその一部を得てカピラヴァツに安置したとある記載が事実であったことを証明するものである。当時19世紀の西欧の学者の間では、佛教の教祖である「釈尊」なる人物はこの地上に実在したものではあるまいという見方が一般的であって、一部の学者にいたっては釈尊信仰を太陽神話の一形式であるとの見方をしていたほどである。そうした状況がこの発掘によって一変し、「釈尊」の実在が立証され、まことに19世紀東洋史上の一大発見となった。

その後インド政庁はこの舎利瓶と若干の副葬品の呈出をうけ、舎利瓶その他はカルカッタの博物館に納めたのであるが、釈尊の御遺骨についてはこれを佛教国であるタイ国(当時シャム)の王室に寄贈したのである。時のタイ国々王チュラロンコン陛下は大いに喜ばれ佛骨を現在もあるワットサケットに安置しお祀りしたのであるが、その一部を同じく佛教国であるセイロン、ビルマに分与せられた。この時日本のタイ国弁理公使稲垣満次郎はバンコクに於いてこれを見聞し、羨望にたえず、日本の佛教徒に対してもその一部を頒与せられんことをタイ国々王に懇願し、その結果「タイ国々王より日本国民への贈物」として下賜するとの勅諚が得られたのである。

日本とシャム(暹羅)の友好を象徴する日暹寺(現在の覺王山日泰寺)の誕生

稲垣公使の通牒が外相青木周藏によせられ、直ちに日本佛教各宗管長に対して、受け入れ態勢の要請がなされ、当時の佛教13宗56派の管長は協議を開いてタイ国々王の聖意を拝受することを決定、明治33年6月に奉迎の使節団を結成し、正使に大谷光演(東本願寺法主)、副使に日置黙仙(曹洞宗、後に永平寺貫首)の他、藤島了穏(浄土真宗)、前田誠節(臨済宗)等がタイに渡り、6月15日バンコク王宮に於いてチュラロンコン国王より親しく御真骨を拝受し、又使節団が帰国後、佛骨奉安の寺院を超宗派で建立するとお約束を申しあげたところ、完成時の御本尊にとタイ国国宝の一千年を経た釈尊金銅佛一躯を下賜された。

奉迎使節団は御真骨を奉持して帰国後、京都妙法院に仮安置し、佛教各宗の代表が集って新たに御真骨をお祀りする寺院の建立計画を協議したが、候補地をめぐって意見が分れ、これの調整に甚だ難渋した結果、名古屋官民一致の誘致運動が最後に効を奏し、ようやく名古屋に新寺院を建立するとの結論を得た。ここに於いて名古屋市民あげての協力によって現在の地に10万坪の敷地を用意し、明治37年、釈尊を表す「覺王」を山号とし、日本とシャム(暹羅)の友好を象徴する日暹寺(現在の覺王山日泰寺)の寺号をもって誕生したのである。

ピプラーワー出土仏舎利骨壺ピプラーワー出土仏舎利骨壺

ピプラーワーのストゥーパから発掘されたお釈迦さまのご遺骨を納めた骨壺。
高さ15cm。壺の上部に文字が刻まれているのが見える。
インド博物館所蔵、1998年撮影。
写真提供、浄土真宗本願寺派岐阜市法性山善徳寺様


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日泰寺境内案内

日泰寺山門

「奉安塔」 1918年(大正7年)完成

・釈尊ご真骨を安置する。高さ15m、県文化財指定。東大教授伊東忠太氏設計による、ガンダーラ様式の花崗岩の佛塔で2階部分に仏舍利(ぶっしゃり)が安置されている。
・奉安塔前には礼拝殿があり、法要がとり行われる。


「本堂」 現在の本堂は1984年(昭和59年)完成

日泰寺山門・本尊はタイ国国王チュラロンコン陛下より頂戴したタイ国宝であった金銅釈迦如来像を祀っている。
・正面にプミポン陛下直筆の勅額一面が掲げられている。タイ文字で 「釈迦牟尼仏」と記され、両側にはプミポン、チュラロンコン両帝の御紋章が輝いている。
・須弥壇両側にはお釈迦様の大壁画がある。(1.8×2.4m(400号))西側は「城を出る」東側は「乳粥の供養」と題されている。高山辰雄画伯の作品である。
・入口西側には高さ3mの金子鷗亭先生の書一対が飾られている。「菊承露」「蘭染煙」と書かれていて、日本の菊、タイの蘭から、日本とタイの友好を表している。(『疎蘭尚染煙。残菊猶承露。』 唐の二代皇帝太宗の「山閣晩秋」の一節)
・「転法輪」の扁額 山田恵諦天台座主の書。梵語dharma-cakra-pravartanaの訳でお釈迦様の説かれた法(教え)を布教し伝えていくの意。古代インドの戦車を表し、戦車の車輪で敵を粉砕するように釈迦の教えが衆生の間を回転し、迷いを打ち破ることを意味している。


「舍利殿」

・奉安塔の礼拝施設。


「墓地」

・境内東側丘陵地には25,000坪の敷地を有し、名古屋名家の墓所が多い。


「霊堂」 1984年(昭和59年)完成

・新しい墓所の形として造られた、いわゆるお墓のマンションであり、我国初の屋内型墓地。四階建てで約4,600基の墓石が並んでいる。


「国王チュラロンコン像」 1987年(昭和62年)建立

・本堂前には、日タイ修好百周年記念として建てられた、タイ国チュラロンコン国王の立像がある。その前にはタイ国皇太子殿下が昭和62年に手植えのタイの花、海江豆(カイコウズ)があり、毎年5~6月に真紅のあざやかな花を咲かせている。


「五重塔」 1997年(平成9年)完成

・高さ30m。中には写経が納められている。


「山門」 1986年(昭和61年)完成

・両脇の二体の像は、高さ4.5m、楠一木造りで、向かって右側には阿難尊者(釈尊の弟子で晩年侍者として仕えて最後を看取った)、左側には迦葉尊者(仏弟子の最長老で釈尊滅後の仏教教団を率いて二祖となった)が立っている。製作は円鍔勝三先生(平成元年)


「鐘楼」 1985年(昭和60年)完成


「香積台」 1998年(平成10年)完成

・寺務所、大庫院


「普門閣」

・近代設備を完備した葬儀などの多目的会館。


「鳳凰台(大書院)」 1927年(昭和2年)完成

・総桧造りで名古屋市指定文化財。


「茶室 草結庵(別名 太郎庵)」

・江戸時代天明年間の建築で愛知県指定文化財。


「八十八ヶ所霊場」

・日泰寺十万坪の境内には弘法大師四国八十八ヶ所霊場が模移され、各像も安置されて
いる。明治42年から大正初めに、各札所が開所された。


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